労働者のこだま(理論)

アクセスカウンタ

zoom RSS 夕暮れの哲学から哲学の夕暮れへ

<<   作成日時 : 2008/08/08 00:49   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 ヘーゲルは『法の哲学』の「序文」でつぎのようにいっている。
 
 「世界がいかにあるべきかを教えることにかんしてなお一言つけくわえるなら、そのためには哲学はもともと、いつも来方がおそすぎるのである。哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現れる。これは概念が教えるところであるが、歴史もまた必然的に示しているように、現実の成熟のなかではじめて、観念的なものは実在的なものの向こうをはって現れ、この同じ世界をその実体においてとらえて、これを一つの知的な王国のすがたでおのれに建設するのである。
 
 哲学がその理論の灰色に灰色をかさねてえがくとき、生の一つのすがたはすでに老いたものになっているのであって、灰色に灰色ではその生のすがたは若返らされはせず、ただ認識されるだけである。ミネルバのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛び始める。」
 
 「ミネルバのふくろうはたそがれに飛ぶ」というのは好きな言葉の一つだが、多くの謎にみちた言葉である。
 
 「世界の思想」(世界はいかにあるべきかを教える学)としての哲学は「現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現れる」ということが正しいとしても、なぜ「哲学がその理論の灰色に灰色をかさねてえがくとき、生の一つのすがたはすでに老いたものになっている」といえるのだろうか?
 
 しかも「灰色に灰色ではその生のすがたは若返らされはせず、ただ認識されるだけである」というおまけまでついている。(解説書のなかにはここでヘーゲルが「認識」という言葉を使っていることから、ヘーゲルはここで哲学の仕事は真理?を認識することだ、ということを言っているというヘンな人、たとえば西田幾多郎のような人、もいるが、もちろんここでヘーゲルが「認識される」というのは「生のすがた」であり、「その生のすがたが老いている」ということである。だからこそ、ミネルバのふくろうはたそがれに飛ぶという言葉が出てくるのである)
 
 ヘーゲルが何を言いたいのか?もう少し考えてみよう。
 
 ヘーゲルは『哲学史」のなかでもやはり「哲学は一つの実在的世界の没落とともに始まる」という哲学=“たそがれに飛ぶフクロウ”論を展開している。
 
 「哲学は一時代の思惟と概念として先天的であるが、本当は同時に結果でもある。というのは、思想は生産されたものだからである。しかし同時に、思想は自分を生産する生命的なものであり、活動性である。ところで、この活動性は否定という本質的な契機をもつ、生産はまた否定でもあるからである。つまり、哲学は自分を生産するために出発点として自然的なものをもつが、それは自然的なものを止揚するがためである。それゆえに哲学が出現するのは、ある民族の精神が最初の自然生活の無頓着な無感覚性から、すでに抜け出す時代、これを反面から言えば、その情熱的関心の立場から抜け出し、したがってこの個別的なものだけしか見ない行き方が取り除かれた時代においてである。けれども精神は、その自然状態を抜け出るのと同様に、また現実の人倫(掟=おきてとしての家族、市民社会、国家)と生命力[民族精神]の立場から反省と概念[ソクラテス、プラトンの立場]に移ってもいく。この結果は、精神はこの実体的な実存の形態、すなわちこの人倫(掟=おきてとしての家族、市民社会、国家)、この信仰を攻撃し、動揺させる。したがって堕落、滅亡の時期が出現することになる。つぎに、さらにいっそうの進展は思想が自分を自分のなかに集中すること[ストア派、エピクロス派、懐疑論の立場など]である。
 
 われわれは言うことができる。民族が一般にその具体的な生活を抜け去り、身分の分離と区別が生じ、民族が没落に近づくとき、あるいは内的努力と外的現実との間の亀裂が現れ、宗教などの従来の形態がもはや不十分となるとき、あるいは精神がその生々とした実存に無関心を表明し、または不満をいだきながらその中にとどまり、したがって人倫生活が解消されるとき、――そこにはじめて哲学がはじまる、と。そこで精神は、現実的世界に対立して思想の国を形成するために思想の世界に逃避する。こうして哲学は思想がはじめたあの実存世界の滅亡の宥和(ゆうわ)となる。、哲学がその諸々の抽象でもって灰色の上に灰色を描くときには、青春の清新と生命は、すでになくなっている。したがって哲学の宥和(ゆうわ)は現実における宥和ではなくて、観念的世界における宥和である。その意味で、ギリシアの哲学者たちは国事から遠ざかった。そうして彼らは思想世界に隠遁したから、国民は彼らを閑人と呼んだものである。」(『哲学史』、ヘーゲル全集11巻、P86〜87)
 
 当たり前の話だが、ヘーゲルは唯物論者ではない。だからヘーゲルは、矛盾を深める世界(民族が一般にその具体的な生活を抜け去り、身分の分離と区別が生じ、民族が没落に近づくとき、あるいは内的努力と外的現実との間の亀裂が現れ、宗教などの従来の形態がもはや不十分となるとき、あるいは精神がその生々とした実存に無関心を表明し、または不満をいだきながらその中にとどまり、したがって人倫生活が解消されるとき)を哲学が本来もっているところの「否定する精神」(思想は自分を生産する生命的なものであり、活動性である。ところで、この活動性は否定という本質的な契機をもつ、生産はまた否定でもあるからである)に求めている。
 
 しかし、これも当たり前の話なのだが、ヘーゲルはどういう意味においても“革命家”、ではない。すなわち、現実を否定する精神であっても、現実を否定し変革する主体ではないので、哲学にできることは現実から逃避して、「国事から遠ざかる」だけであるというしかない。
 
 そういう点では、ヘーゲルは哲学を、中国の魏晋南北朝時代に存在した「竹林の七賢」(竹林に集まって、清談を繰り広げていた中国の無力な貴族たち)のようなものというのであろうか?なお、「清談」というのは、世俗的な政治談義をさけて高踏的な哲学談義をすることなのだそうだから、そうと言えなくもない。しかし、これでは「ミネルバのふくろう」どころではなく、「竹林のおしゃべりスズメ」であろうし、哲学の、実存世界との宥和ではなく、実存世界の滅亡との宥和(滅びゆく世界の破滅の手助けをすること)であろう。
 
 ヘーゲルはさらに続ける。
 
 「この現象は全哲学史を通じて証明される。すなわち、小アジアのイオニア諸国家の没落とともに、イオニアの哲学が起こった。ソクラテスやプラトンは没落しつつあったアテナイの国家生活に、もはや何の喜びも感じなかった。プラトンはディオニュシオスのもとでヨリよい国家を実現しようと試みた。こうしてアテナイにおいてはアテナイ国民の滅亡とともに、哲学がそこに生ずる時代が出現する。ローマにおいては哲学は本来のローマ生活、すなわち共和国の没落とともに、ローマ皇帝の専制政治のもとで、はじめて流布した。すなわち、以前の宗教生活は動揺し、すべてのものは新しいものへの解消と努力との過程にあったところの世界の不幸と政治生活の没落のこの時代において、哲学は流布したのである。あのようにも大きく、富んで光輝にみち、しかし内面的には死んでいたローマ帝国の没落に、アレクサンドリアの新プラトン派の哲学者たちの古代哲学の高い、いや極めて高い発達は結びついていた。15世紀と16世紀においても同様である。中世ゲルマン生活が他の形式を獲得したとき、そうして(以前には政治はまだ宗教と一体となっていたのに、あるいは国家は教会にたいして戦ったとはいえ、教会はなお支配的な位置を保っていたのに)いまや国家と教会とのあいだに亀裂が生じた時、そこにはじめて哲学が、かえりみられることになった。もっとも、それが独立的なものとなってくるのは後に近世になってのことである。このように哲学は全体の発展のある時期にのみ現れるものなのである。」(『哲学史』、ヘーゲル全集11巻、P87〜88)
 
 興味深いのは、ヘーゲルがその例として例示している部分である。
 
 ヘーゲルによると、それは
 
 @ 古代ギリシアのイオニア諸国の没落とイオニア哲学の出現
 
 A アテナイの没落とソクラテス、プラトンの哲学
 
 B 古代ローマ共和国の崩壊とローマの哲学の出現
 
 C ローマ帝国の没落と新プラトン主義ないしアレクサンドリア派哲学の出現
 
 D 中世の没落と哲学復興
 
である。
 
 @について
 
 もちろんヘーゲルが「小アジアのイオニア諸国家の没落とともに、イオニアの哲学が起こった」というのは正しくない。正しくは、イオニア哲学が起こったあとで、イオニア諸国家が「没落」したのである。そして、没落に「」(カッコ)がついているのは、小アジアでアケメネス朝ペルシアの影響力が拡大してイオニア諸国家がペルシアの支配下に組み入れられていったからで、イオニア哲学自体はペルシアによる占領後は、ギリシア本土に移転し、むしろ全ギリシアの哲学となっていったのである。
 
 この場合、ペルシアによるイオニア諸国家の「没落」とイオニア哲学の興隆は無関係ではないであろう。なぜなら、ヘーゲルが「哲学は自分を生産するために出発点として自然的なものをもつが、それは自然的なものを止揚するがためである」というのは正しいのであるが、イオニア哲学が、自分を生産するために出発点として利用した「自然的なもの」というのは、バビロニアの天文学やエジプトの幾何学や医学だったのである。タレスにはじまるイオニアの哲学者(彼らは自然哲学者とも呼ばれている)たちは、このペルシアから流入した自然科学の具体性をはぎとって、抽象によって事物の本質とは何かを考えようとしたのだが、この自然科学の流入と同じ道を通って東方の大国ペルシアがギリシアに攻めてきたのである。だから、この自然科学を基礎としたイオニア哲学はペルシア戦争の戦火の中で、また戦火を逃れてギリシア本土に渡り、ギリシア哲学の基礎となっていったのである。
 
 ところが、ヘーゲルは『哲学史』のなかで、イオニア哲学の最高峰を形成したヘラクレイトスを意図的にイオニア学派には入れずにず、エレア学派のゼノンの後においている。実際には、ヘラクレイトスが活躍した時代はピタゴラス、クセノファネス(エレア学派の始祖)よりも少し後で、エレア学派のパルメニデスと同時代人である。、ゼノンはパルメニデスのつぎに出てきた人であるからゼノンのつぎにヘラクレイトスが置かれるのは時代的にあわないし、地理的にもヘラクレイトスは小アジアのイオニア沿岸都市の一つであるエフェソスの出身であり、ペルシア戦争(ダリウス1世のギリシア遠征)の直接のきっかけとなったイオニア諸都市の反乱(BC500年)当時の人である。
 
 なぜヘーゲルはこのようなわざとらしい入れ替えを行ったのか、ということを考えることは、むしろヘーゲル哲学とは何か?という問いの答えになるのかも知れない。そこでわき道にそれることになるが、もう少しこの問題に関わっていこう。
 
 ヘラクレイトスの哲学は、「パンタ・レイ」(万物は流転する)という有名な彼の言葉があらわしているように基本的に弁証法的であり、ヘラクレイトスその原因を対立物の闘争に求めている。しかもこの流動と変化はロゴス(一般的な法則)に支配されている。
 
 だからヘラクレイトスにとって「この世界は神々や人間の誰かによってつくられたものではない。むしろそれはきまっただけ燃え、きまっただけ消えながら、永遠に生きる火であったし、現在もそうであるし、未来もそうである」ものだった。ヘラクレイトスはアルケー(万物のもとになる始原、原質、原理)は火であったが、それは生成し消滅していく動的なものである。
 
 だからレーニンはヘラクレイトスに「弁証法的唯物論の諸原理の非常にすぐれた叙述を見たのであるし、ヘーゲルも『哲学史』のヘラクレイトスの項で「ここにわれわれは[弁証法の]祖国を見出す。ヘラクレイトスの命題で、私の論理学のなかに取り入れられなかったものはないのである。」(『哲学史』、ヘーゲル全集11巻、P362)とヘラクレイトスを手放しで絶賛している。
 
 そうすると、ヘーゲルがゼノンの後にヘラクレイトスを置いた理由が、余計分からなくなるのであるが、ゼノンの項ではヘーゲルはゼノンについてこのように評価している。
 
 「ゼノンの特性は弁証法にある。弁証法は実にゼノンにはじまる。彼はエレア学派の巨匠であって、エレア派の純粋な思惟は彼において自分自身において概念の運動となる。すなわち哲学の純粋な魂となるのである。」(『哲学史』、ヘーゲル全集11巻、P339) 
 「ゼノンが真の客観的弁証法の開祖であるという極めて重要な側面をもつということについては、すでに述べた。」(『哲学史』、ヘーゲル全集11巻、P341)
 
 「弁証法は一般的にいえば、つぎのいずれかである。
 
 (α)[外的弁証法]ここでは、この[弁証法的]運動とこの運動の把握との区別がある。
 
 (β)[内在的、客観的弁証法]――それは単にわれわれの知性の運動ではなくて、ことがらそのものの本質からの、すなわち内容の純粋概念からの証明である。
 
 前者[外的弁証法]は対象の諸根拠と対象の諸側面を指摘し、それによって普通には確固としたものと考えられているものをすべて動揺させるように、諸々の対象を考察する方法である。そこには全く外面的な諸根拠もありうる。しかしこの弁証法については、ソフィストのところで詳しく論じることになる。
 
 これにたいして他の弁証法[内在的、客観的弁証法]は、対象の内在的考察である。すなわち対象は前提、理念、当為なしに、外面的な諸関係、諸根拠の面からでなく、向自的に[そのものとして]見られる。まったく事柄のなかに入り込んで、対象をそれ自身において考察する。そして対象を、それがもつ諸規定にしたがって取り上げるのである。だから、この考察においては、対象が相対立する規定を含み、それゆえに自分を止揚するものであることが、対象そのものによって示される。われわれはこの弁証法を、まさにこの古代人(ゼノン)のなかに見出すのである。」(『哲学史』、ヘーゲル全集11巻、P343〜344)
 
 これだけ読むとヘーゲルはゼノンを客観的弁証法の開祖と見ており、その客観的な弁証法のより発展したものがヘラクレイトスなのだから、ヘラクレイトスをゼノンのあとに置いたということも考えられる。
 
 ところが『哲学史』をさらに読み進んで、ヘラクレイトスのところに来ると、ヘーゲルは
 
 「われわれが絶対者をまだ思想として把握しなかったイオニア派とともにピュタゴラス派をされば、エレア派の純粋者と、あらゆる有限的関係を否定する弁証法をもつことになる。思惟はエレア派にとっては、このような諸現象の過程であり、世界はそれ自身として現象である。ただ純粋有のみが真なるものである。ゼノンの弁証法はそれゆえに、内容そのもののなかにある諸規定を把握する。けれども、この弁証法も、それが考察する主観に属するものであるかぎり、またこの弁証法の運動のない一者が抽象的同一性であるかぎり、まだ主観的弁証法と呼ばれうる。主観のなかの運動としての弁証法であることからの一段の進歩が、弁証法そのものが必然的に客観的になることである。」(『哲学史』、ヘーゲル全集11巻、P361)という。
 
 前項ではヘーゲルは、ゼノンのことを客観的弁証法の開祖と最大限持ち上げながら、つぎのヘラクレイトスの冒頭では、ゼノンは主観的弁証法にすぎないと断罪している。
 
 しかも、ゼノンの哲学の多くは「ゼノンの逆説」(たとえば、飛ぶ矢は飛ばず、なぜなら飛んでいる矢は、各瞬間に自分の大きさと等しい空間を占めている。これは静止というのであるから、各瞬間の矢は静止している等々)と呼ばれる運動否定論であり、厳密な意味では弁証法とは呼べないし、そもそもが、ゼノンの緒論は、ヘラクレイトスの「パンタ・レイ」(万物は流転する)を批判するためのものであった。
 
 では、運動、変化を否定することによって成立しているエレア哲学は、彼らの眼前で繰り広げられている運動、変化をどうとらえているのだろうか?エレア学派のパルメニデスによれば、それは感覚のドクサ(虚妄、虚構)にすぎないものであり、「真理」のたんなる「影」にすぎないものであり、「外観」にすぎないものとされる。われわれの世界(現実の世界)のほかに、もう一つの「真理の世界」をうち立てるという点ではエレア派はプラトン哲学の先がけともいうべきものであろうが、このような哲学は多くの観念論に特有なものである。だからこそヘーゲルはゼノンのことを「主観のなかの運動としての弁証法」にすぎないと評価したのであろう。
 
 だから、このヘーゲルの入れ替え(イオニア学派のヘライクレイトスを時代をずらせてゼノンのあとにもってくる)は非常に作為的で不自然なのだが、これはヘーゲルが、本来の哲学の歴史、すなわち、自然学の発展が必然なものとして弁証法的唯物論にいたった、すなわち、エジプト、メソポタミアの自然科学の発展が、イオニアの自然哲学をもたらし、イオニアの自然哲学の発展が、ついに、弁証法的唯物論にいたったということを認めることができないからである。
 
 ヘーゲルは自らの哲学を内在的、客観的弁証法に模しており、自称もしているが、他方では、「概念の運動」すなわち、「哲学の純粋な魂」の自己運動としてとらえている。つまり、ヘーゲルの哲学は概念の自己運動によって世界が形成されていくという観念論的な哲学なのであって、唯物論的な哲学ではないのだから、観念的なものから弁証法が生まれたということにしなければ彼の哲学自体が立脚点を失ってしまうことになろう。
 
 だから自らが観念論的哲学に立脚しているヘーゲルと同じく観念論的哲学のエレア学派に対してヘーゲルは親近感を持っていたのである。
 
 また、ヘーゲルは「絶対者をまだ思想として把握しなかった」といってイオニア派を攻撃しているが、この絶対者、すなわち、「一にして全なるもの」=神=自然というクセノファネスの一神教はエレア学派を生みだした。ヘーゲルは、エレア学派の「一にして全なるもの」=神を「概念の運動」の基底(哲学の魂)として、その自己運動によって世界が生みだされるとしているのである。つまり宗教との関連で見れば、ヘーゲルは必ずしも宗教と絶縁しているわけではなく、神=自然=概念とすることで、神と自然を宥和させている。この点からするなら、ヘーゲルは「一にして全なるもの」=神を哲学のなかに取り入れたエレア学派の出現を待たなければ弁証法は生まれなかったといいたかったのであろう。
 
 つまりヘーゲルはヘラクレイトスのような内在的、客観的弁証法こそ真の弁証法でなければならないと考えていたが、彼の考えている客観的弁証法は概念の自己運動としての弁証法でもあったために、観念的な、すなわち概念の自己運動としての弁証法の発展の結果として生まれる必要があったためにヘラクレイトスの位置をずらしたものと思われるのである。
 
 少し回り道をしてしまったために、A以下は簡単に述べるにとどまりたいが、Aのソクラテスとプラトンの時代、アテナイ(アテネ)はすでに没落の道をたどっていた。
 
 BC404年には、長く続いたスパルタとのペロポンネソスに敗北して、アテネはスパルタに降伏した。アテネはアクロポリスをスパルタに占領され、政治権力は30人の貴族による寡頭支配が行われていた。もっともアテネの民主派はスパルタのアテネ占領後国外に逃れていたが、翌年(BC403年)には再びアテネに戻って、民衆とともに蜂起して貴族の寡頭政治を倒して民主政治に戻っている。
 
 ソクラテスは「青年たちを堕落させることによってアテネに害毒を流した」罪で告発され(BC400年)500人の民衆裁判で死刑判決を受け、毒を飲んで獄死した(BC399年)のだが、この裁判は多くのナゾに包まれている。というのは、「青年たちを堕落させることによってアテネに害毒を流した」というぐらいではたして死刑になるのか?という疑問はぬぐい去ることはできないからである。
 
 それこそ密室裁判であれば、罪なき者が罪に問われたということも言えようが、500人の民衆が“裁判員”となった公開裁判で“裁判員”の過半数が、ソクラテスには処罰を受けるに値するだけの罪もしくは所業があったと判断したのであるから、それなりの何かはあったであろうし、なければおかしいであろう。(裁判が公平であったことは、ソクラテスも、ピタゴラスも認めている。)
 
 ソクラテスを告発したのはアテネの民主派であり、ソクラテスは貴族派であった。だから、ペロポンネソス戦争敗戦後のアテネの民主派(反スパルタ派)と貴族派(スパルタ派)の政治闘争が“ソクラテス事件”何らかの影を落としていたと思われるが、この裁判の不思議さはソクラテスの哲学の不思議さにもつながっている。
 
 ソクラテスの哲学は道徳哲学であり、知=徳を説くものであるが、ソクラテスはそのための方法として「問答法」(ディアロゴス)を説く。つまり、対話によって知=徳に到達しようというのである。
 
 この「問答法」の第一条件は、対話によって相手の世俗的な知識を批判して、自分の無知を自覚させるというものである。
 
 ソクラテスは、「問答法」によって無知を自覚した相手を「知の知」に到達させるのであるが、彼はその知識を相手に注入するのではなく、自分の魂のうちに自分で生みださせるというのである。ソクラテスは、この方法を産婆が赤ん坊を取り出すようなものであることから「助産術」と呼んでいる。
 
 しかし、ここにはソクラテスの大きなウソがある。人間に「知」を独自に生産する能力があるのであれば、およそ教育なり、学校といったものは無用なのであろう。ソクラテスは技術知ではなく、道徳としての「知」なのだからそれでもいいというのだが、どのような知識であれ、それは外側からやってこざるをえないのであるからこそ、人間には「学ぶ」という行為が必要なのである。
 
 そしてソクラテスの哲学がこのような「助産術」にとどまっていたとするなら、「国家の神々を認めないで別の新規なダイモン(鬼神)を導入する罪を犯した」という彼にたいするもう一つの訴追理由はどうなるのであろうか?彼(ソクラテス )の影響下にあった青年たち一人一人が「国家の神々を認めないで別の新規なダイモン(鬼神)を信奉していた」とするなら、「別の新規なダイモン(鬼神)」は、誰か(ソクラテス)によって青年たちの頭のなかに持ちこまれなければならなかったことほど明確なことがあろうか?
 
 したがって、ソクラテスの弟子たちがソクラテスと同じ「神」を信じていたという事実は、ソクラテスの「産婆法」が一つの虚構であり、実際には、対話によって、相手の思考を誘導して、自分の思想を相手に伝達して移植する手段にすぎなかったことを示している。
 
 ソクラテスの死によって彼の弟子であったプラトンはアテネを去り、海外を転々とすることになる。
 
 南イタリア(シチリア島)のシラクサでは、僣主(※)のディオニシオスを教育して自分の思うような政治を行おうとしたが、ディオニシオスに拒否されて彼の試みは失敗している。
 
 (※ アリストテレスは「国制」を君主制、貴族制、共和制の3種類に分け、それぞれの堕落形態として僣主制、寡頭制、民主制をあげている。この最後の共和制(民主制)については堕落形態として衆愚政治をあげる人もいる。)
 
 プラトンはその後、アテネに戻ってアカデメイア(学園)を創設する。(BC387年〜BC347年)この時代をヘーゲルは「こうしてアテナイにおいてはアテナイ国民の滅亡とともに、哲学がそこに生ずる時代が出現する」(『哲学史』)というのだが、もちろん、“アテネ国民の滅亡”は、BC338年にアテネ・テーベ連合軍がマケドニアのフィリップ2世に敗北して、ギリシア連合軍がマケドニアに降伏したことによるのだが、このプラトンのアカデメイア時代はギリシア諸都市が滅亡に向かって行進を開始していた時代と重なる。
 
 政治の舞台では、第二次スパルタ・アテネ戦争(コリント戦争)やテーベの覇権をめぐる戦争があったが、これらの戦争によって農地が荒廃し、農民が没落するとともに、傭兵が増加して、アテネの民主制はしだいに形骸化していった。
 
 プラトンは、もちろんソクラテスの弟子として師を死に至らしめた民主制を憎悪しており、『国家』という著書では、哲学者王を理想的な統治者(国家の頭)として想定している。これに国家の「胸」にあたる「防衛者」(軍人・役人)と「腹」にあたる「生産者」(農民・職人・商工業者)が続く。そして、「生産者」は国家の「栄養的」機能を果たすが、国政にたずさわるべきではなく、生産に専念すべきものとされる。(プラトンは明言はしていないが、奴隷制度を当然のものと考えていたので、これら国家の三要素の下には奴隷が存在する)
 
 プラトンはこのような構想をもとにシチリア島のディオニシオスを「哲学王」に改造しようとしたが、彼の試みは失敗したので、彼の哲学はしだいに現実と遊離したものになっていく。
 
 プラトンもまたストア学派のように「有るもの」から出発するが、その「有るもの」とはパルメニデスの「有るもの」、すなわち、運動し、変転する現象界の彼方にある「一にして全なるもの」(永久不変の真実存在であり、現象を越えた本質)である。彼はそれをイデアと名づけたが、アリストテレスによれば「ソクラテスは普遍的なものや定義を独立して存在するものとはしなかったのであるが、イデア論者(プラトン)たちは、これに反して、それらのものを離れてあるものとし、これらの普遍的なものや定義をイデアと呼んだのである。」(アリストテレス、『形而上学』)
 
 このようにプラトンが現実の世界の他に、その背後にある“本質の世界”(イデア界)をつくりあげたことにたいしてヘーゲルが「そこで精神は、現実的世界に対立して思想の国を形成するために思想の世界に逃避する。こうして哲学は思想がはじめたあの実存世界の滅亡の宥和(ゆうわ)となる」(『哲学史』)というのは正しい。
 
 (ヘーゲルは一見すると、プラトンの「イデア論」を否定的なものとして見ているようであるが、ヘーゲルの哲学自体が概念の実在性とその自己運動による個物の生成をテーマにしているのだから、必ずしも全面的に否定しているわけではない。彼の『大論理学』では「プラトンのイデアは普遍、もっとはっきり言えば対象の概念にほかならない。ものはその概念のなかにおいて、はじめてその現実性をもつ。ものがその概念と異なるものであるかぎり、ものは現実的に存在しないものとなり、空なものとなる。」大論理学、上の1巻、P35、といい、さらに「精神と自然とが普遍法則をもち、その法則にもとづいてその生命、そのいろいろな変化が生ずるものだということがいわれるかぎり、思惟規定が客観的価値と存在をもつということもまた許されるのである」(同、P36)ともいう。「ものがその概念とは異なる」場合、正しくないの概念規定のほうであって、「もの」ではないのだし、思惟規定が客観的価値をもっているのかということと、それが実在物として「存在」しているかどうかということはまったく別のことがらなのだが、ヘーゲルはそれをゴチャゴチャにしてイデアの実在性を論じている。)
 
 ところで、「よき意志」から出発したプラトンがしだいに観念論へと傾斜し、思想の世界に逃避しなければならなかったのはなぜだろう。
 
 プラトンの理想国家はポリス(ギリシアの都市国家)の理想でもあったのだが、その理想が現実と乖離せざるをえなかったのは、古代ギリシアの社会そのものがすでに変質していたからであった。
 
 古代ギリシア社会に花開いた古代民主主義は、自営農民の自由な分割地所有に基礎を置いていた。同じ土地所有者として彼らは自由であり、平等であったのたが、彼らの土地所有は共同体を媒介としていた、すなわち、分割地が与えられるのはポリス(都市国家)の住民(市民)にかぎられており、土地の所有者になるためには、第一の要件として、共同体の構成員でなければならなかったのである。
 
 このような自営農民の集団として、ポリスの住民(市民)は、戦時には重装歩兵として戦闘に参加したり、平時には国政に参加した。(民主政治の最盛期のアテネではすべての官職が市民の投票によって選ばれ、裁判の陪審員も市民のなかから抽選で選ばれ、重要な問題は成年男子全員が参加する民会によって決められていた。)
 
 ところで、ポリスの市民たちは自営農民であるにもかかわらず、都市に住み、兵役に服し、政治に参加することができるのはなぜだろうか?それはいうまでもなく、生産的労働は主に奴隷によって行われていたからである。(アテネでは人口30万人のうち、市民とその家族が17万人、3万人が外国人、10万人が奴隷であるといわれ、1戸あたり1〜2人の奴隷がいた。)
 
 したがって古代ギリシアの基本的な生産様式は奴隷制であり、古代の民主主義はこのような奴隷制度の上に築かれていたのである。
 
 ギリシアの奴隷の多くが黒海や小アジアから金で買われてやってきたことから、この奴隷制は私的所有と貨幣経済の発展自体がもたらしたものであるが、貨幣経済のいっそうの発展は民主制の基礎を掘り崩していく。なぜなら、貨幣経済(商品経済)の進展によって、成功して富や土地を蓄積する市民がでる一方で、農業経営に失敗して土地を失う農民も出てくるし、ペルシア戦争に続く、ペロポネソス戦争、などのギリシア本土で長く続いた戦争は農地を荒廃させ、経済を疲弊させた。そしてこれら土地を失った農民たちは有力者のもとで傭兵として雇用されることによって、政治的な独立性を失っていった。
 
 ソクラテスやプラトンの時代はこのような自営農民の自由な分割地所有に基礎を置いていた古代民主主義が形骸化し、崩れてゆく時代であり、このなかで彼らは現実の世界に観念の世界(過ぎ去った世界を理想化したもの)を対置してそのなかに逃避していったのである。
 

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
夕暮れの哲学から哲学の夕暮れへ 労働者のこだま(理論)/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる