労働者のこだま(理論)

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zoom RSS ヘーゲル法哲学と歴史法学派 その1

<<   作成日時 : 2008/08/21 14:41  

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1 はじめに

 今回のテーマは、正直なところ、多くのマルクス主義者にとってどうでもいいものであるかもしれないし、法学関係者または法思想史家にとってもどうでもよいものであるのかもしれない。

 どうでもよいというのは、直接的なかたちで、マルクス主義は出てこないし、法学をテーマとしながらも、厳密な意味での法学的なものも、法思想史的なものもあまり含んでいないからである。

 それにも関わらず、このようなテーマを選ばなければならないと考えたのはマルクスがどこから出発したのか考えるためである。

 マルクスによってマルクス主義が生み出されたということは、マルクス主義者でなかったマルクスがマルクス主義者になったから、マルクス主義が生まれたということでもある。(多くのマルクス主義者はこのことを完全に忘れている)

 だとすれば、マルクスの思想形成の過程のどこでそれが行われたのか、ということはわれわれにとって大きな関心事となるのだが、ここでわれわれは古い学問に引きずられているマルクスに直面することになる。このマルクスをどう見るのかということは読者におまかせしたいが、マルクスが歩んできた道を考える上で出発点を確認することはけっして無意味なことではないと筆者は信じるものである。なお、ここではマルクス主義者になる前のマルクスを後世のマルクス主義者であるマルクスと区別するために青年マルクスと呼ぶことにしている。

2 なぜ歴史法学派批判なのか?

 マルクスは1842年4月から『ライン新聞』に寄稿しはじめ、その年の10月には編集部の主幹、すなわち編集長となっている。

 その1842年8月9日付の『ライン新聞』には『歴史法学派の哲学的宣言』という記事が載っている。

 その内容は以下の通りである。

 「歴史(法)学派は原史料の研究をその合言葉とした。そしてこの学派は、原史料への愛着を極端にまで高めて、ついには船頭に向かって、河の流れでではなしにその水源で漕げ、と要求するほどになっている。だからこの学派は、われわれがこの学派の水源をたずねてフーゴーの自然法にまでさかのぼることを正当と認めるであろう。・・・

 18世紀に流行したある仮構では、自然状態が人間的本性の真の状態だと見られていた。人は肉の目で人間の理念を見ようと欲した。そして、その素朴さがその羽毛のはえた皮膚にまでいきわたっているところの自然人、パパゲーノー(※)を創造した。・・・
 
 ※ パパゲーノー――モーツアルトの歌劇『魔笛』のなかの一人物、劇中では、鳥の羽根でできた着物をまとった捕鳥者の姿で登場。

 この歴史(法)学派の自然人、まだ少しもロマン主義的な文化に染まっていない自然人、これがフーゴーである。彼の自然法の教科書が、歴史学派の教科書なのである。・・・

 ただし、われわれがフーゴー氏を歴史学派の始祖とし創造者として呼ぶ場合、それはこの学派それ自身のいう意味においてそう取り扱っているのであり、この意味はあの有名な歴史法学者がフーゴーの記念祝典によせた祝典プログラムに示されているところである。」
 
 青年マルクスが「有名な歴史法学者」というのは 、サヴィーニーのことである。ベルリン大学法学部教授のサヴィーニーはこの年(1842年)勅令でプロイセンの法務大臣になっており、青年マルクスはここで、暗に、法務大臣となったサヴィーニーを批判しているともいえる。

 ところで、サヴィーニーらが歴史法学派と呼ばれるのは、彼らが「法」を民族精神の有機的所産であり、まず慣習と民族意識によって慣例法がつくられ、やがてそれが法律として成文化されるようになったものであると考えていたからである。

 これはジョン・ロックやルソーによって主張された自然法がアメリカの独立やフランス革命などの市民革命の指導原理になってき、「ナポレオン法典」はそのようなブルジョア的民主主義の集大成として存在した。この「ナポレオン法典」はナポレオンのヨーロッパ占領によってヨーロッパ各地に押しつけられたのだが、ここではそのことに対する一つの反動としてのロマン主義的な法哲学であった。啓蒙思想家たちが普遍的、一般的な自然法理論の帰結として人権と民主主義を掲げたのにたいして、ドイツの歴史学派は民族の慣習、伝統を持ち出してブルジョア市民革命の原理に対抗しようとしたのである。

 しかし、不思議なことに、ドイツの歴史法学派は民族意識と慣習法を重視する法学という民族主義的な立場をとりながら、彼らは実際にはゲルマニステン(ドイツ古法尊重派)ではなく、ロマニステン(ローマ法尊重派)であった。

 なぜか?それは当時のドイツが依然として諸領邦に分裂しており、ローマ法のみがドイツ全土で統一的に通用する現行法としての機能していたからである。(ローマ帝国で施行されていたローマ法はローマ帝国が崩壊したあともヨーロッパ各国に受け継がれて一部の諸国で現行法として施行されていた。これはローマ法、特にローマ民法が抽象的、一般的な性格をもっていたからである。)したがって歴史法学者たちはローマ法の近代的運用のなかにこそ、ドイツ民族の統一的な精神が表現されると考えたのである。

 したがって青年マルクスがいう、「船頭に向かって、河の流れでではなしにその水源で漕げ、と要求する」というのは、このような歴史法学者たちの、源流である古代ローマ法にたちかえって、そこから現代に適合的な法体系を再構成せよという主張をさしているのである。
 
 再び青年マルクスに立ち返って、話を続けよう。

 「しかし、われわれがフーゴー氏を18世紀の児として解する場合には、さらにフーゴー氏みずからの精神においてそうしているのであって、このことは、彼が自分をカントの一学徒と称し、その自然法をカント哲学の一若枝と称することによって、彼みずから証言しているとおりである。われわれは彼の宣言をこの点で取り上げる。

 フーゴー氏はその先生のカントを誤解して、われわれは真なるものを知りえないのであるから、われわれは必然的帰結として非真なるものを、もしこれが存在しさえすれば、まったく妥当なものとして適用させなければならない、としている。フーゴーは事物の必然的な本質にたいしては一個の懐疑家であるが、それは事物の偶然的な現象にたいして一個のホフマンのような人になろうがためである。だからして、彼は現存的なものが理性的であるとはけっして証示しようとつとめず、かえって現存的なものは理性的でないと証示しようとつとめている。・・・

 「ホフマンのような人」というのは、エルンスト・テオドール・アマデウス(ETA)ホフマン(1776年〜1822年)のこと。裁判官(ナポレオンのドイツ侵攻とともに裁判官を罷免され、音楽指揮者となっていたが、ナポレオンの失脚後、裁判官に復職)でありながら、幻想小説の作家、作曲家、画家としてドイツロマン文学の中心的人物。私生活では、女性といろいろもめごとを引き起こしている。ここでは「ロマン主義的で幻想的な裁判官」という意味か。

 その原理がそうであるように、そのように、フーゴーの立論も現存[肯定]的である。いいかえれば無批判的である。彼はおよそ区別というものを知らない。現存するものはいずれも彼にとっては権威と解され、いずれの権威も彼にとっては根拠と解される。そこで一つの節に、モーゼとヴォルテール、リチャードソンとホメロス、モンテーニュとアムノン、ルソーの『社会契約』と、アウグスチヌスの『神の国』が引用される。・・・

 ある場所ではこれが現存的であり、他の場所ではあれがそうである。一方も他方も同じように非理性的である。汝の縄張りのなかで現存的であるところのものを汝をゆだねよ。

 フーゴーは、それゆえに、完全な懐疑家である。現に存立するものの理性にたいする18世紀の懐疑は、彼のもとでは、理性の現に存在することにたいする懐疑としてあらわれる。彼は啓蒙思想を採用する。彼は現存的なもののなかに、もはやなんら理性的なものをも見ない。しかしそれはただ、理性的なもののなかにはもはやなんらの現存的なものをもあえて見ようとしないためである。

 彼(フーゴー)は考える、人が現存的なものにくっついた理性の見せかけを吹き消したのは、理性の見せかけのない現存的なものを容認するためである、と。彼は考える。人が鎖にくっついた虚偽の花をむしりとったのは、花の咲かない真実の鎖を帯びるためである、と。

 (誤解しないでもらいたいのだが、後年、マルクスは『ヘーゲル法哲学批判』のなかで、「[宗教の]批判は鎖にまつわる想像の花をむしりとってしまったが、それは、人間が夢もなぐさめもない鎖を背負うためではなく、鎖をふりすてて生きた花をつみとるためであった」といっている。ここでも同じようなことが語られているが、ここでは『ヘーゲル法哲学批判』とはまったく正反対のことが語られているのである。ここで青年マルクスは「鎖にくっついた虚偽の花」というのは「現存的なものにくっついた理性の見せかけ」のことであるので、それは安易にふりすてるべきものではないといっているのである。つまり『ヘーゲル法哲学批判』では、この「現存的なものにくっついた理性の見せかけ」は「鎖にまつわる想像の花」となっており、それがもっていた「理性の見せかけ」自体が根拠のない想像的なものとされているので、それはむしろむしり取られるべきであると主張されているのであるが、ここではフーゴーは現存的なもののなかに理性的なものを見ようとしないので、それをむしり取ろうとするが、それはよくないことであると青年マルクスは言っているのである。青年マルクスは、たとえそれが見せかけであろうと、理性的なものの外観をもつのであれば安易に捨てられるべきではないと言っているのである。)

 フーゴーが18世紀の他の啓蒙思想家たちに対する関係は、たとえていってみれば、ちょうどあの摂政(オルレアンのフィリップ2世)のだらしない宮廷でのフランス国家があの国民議会におけるフランス国家の解体にたいする関係のようなものである。どちらの側でも解体だ!あちらの側では、その解体はだらしない軽薄さとしてあらわれている。すなわち、現に存立する物事がうつろな理念喪失の状態にあることをしってこれを嘲笑しはするが、しかし結局はただ、あらゆる理性的・人倫的な束縛から脱して、腐敗したがらくたをもてあそぶため、しかもそのがらくたによってももてあそばれ解体されるためにそうするにすぎないところのだらしない軽薄さとしてあらわれている。それは、自分自身を飲み食いするところのその当時の世間の腐敗である。これに反して、国民議会においては、その解体は、古い形式からの新しい精神の解放としてあらわれる。そこでは、古い形式はもはや新しい精神をとらえるだけの価値もなく能力もなくなっていた。そこには新しい生命の自己感情があって、これが破壊したものを破壊し、排撃されたものを排撃している。

 したがってもしカントの哲学をフランス革命のドイツ的理論とみることが正当であるとすれば、そのようにフーゴーの自然法はフランスのアンシャンレジーム(旧体制)のドイツ的理論と見られる。・・・

 マルクス主義同志会の林紘義氏はカント哲学を絶賛する青年マルクスの立場をそのまま承認してカントの哲学の革命性を主張している。要するに、カントの哲学は、フランス革命時の国民議会のように、「古い形式からの新しい精神の解放」であり、「新しい生命の自己感情」があるというのである。

 しかし、ヘーゲルはカントの自由についていう。

 「[義務の絶対性] 意志の本質的なものは私にとって義務である。善は私にとって義務であるということ以外に私は何も知らないとすれば、私はまだ義務の抽象的なもののところにたちどまっているわけである。私は義務をそれ自身のために行うべきであって、私が義務のうちに成就するのは真実の意味での私自身の客観性なのである。私は義務を行うなかで自分自身のもとにおり、自由なのである。義務のこの意義をきわだたせたことが、カント哲学の実践的なものにおける功績であり、高い立場なのである。」(『法の哲学』、中央公論、世界の名著44、P337)

 「[自由への前進としての義務] 義務が制限するのは主観性の恣意だけであり、義務が衝突する相手は主観性が固執する抽象的な善だけである。人々が自由でありたいという場合、それはさいずめただ、抽象的に自由でありたいという意味にすぎない。だから国家における規定と分節的組織はことごとく自由の制限とみなされる。こうした自由の制限であるかぎり、義務は自由の制限ではなくて、自由の抽象的観念の制限、つまり不自由の制限にすぎない。義務とは本質への到達、肯定的自由の獲得なのである。」(『法の哲学』、中央公論、世界の名著44、P378)

 ヘーゲルはカントの功績を、自由というのは義務を遂行することだとしたことであるとしており、このような見解はヘーゲルの『法の哲学』のなかでも、そして青年マルクスにも受けつがれている。だから青年マルクスはいう。

 「以前の哲学的な国法学者は、国家を構成するにあたって、名誉心であろうと、社交本能であろうと、とにかくなんらかの衝動から出発したし、あるいは理性から出発した場合でも、社会の理念からではなく、個人の理性から出発したのであるが、最新の哲学のいっそう理念的で、いっそう根本的な見解は、全体の理念から出発する。それは、国家を大きな有機体として考察するが、この有機体では法的、倫理的、および政治的な自由が実現されなければならず、また個々の公民は、国法に従うことによってほかならぬ彼自身の理性、人間的理性の自然法則に従うのである。」(『「ケルン新聞」第179号の社説』、全集第1巻、P120)

 青年マルクスがいう「人間的理性の自然法則」というのはいうまでもなく、カントの道徳律のことであり、青年マルクスもまた、国法にしたがう(義務を遂行する)ことによって、「法的、倫理的、および政治的な自由」が実現されると主張しているのである。

 そして、青年マルクスはフーゴーの著書から何カ所か引用して、結論として次のようにいう。

 歴史学派の哲学宣言からの以上のわずかの抜き書きだけで、この学派についての歴史的判断を非歴史的な想像や漠然とした心情の夢や故意の仮構の場におきかえるに十分である、とわれわれは信じる。またそれだけ十分に、はたしてフーゴーの後継者たちがわれわれの時代の立法者たる使命をもっているかどうかを決定しうると信じる。

 「フーゴーの後継者」というのはサヴィーニのことで、ここでは青年マルクスは、暗に、当時プロシアの法務大臣をしていたサヴィーニに「現実を追認することができるだけの君に、法務大臣たる資格があるのか」と批判しているのである。

 いうまでなく、歴史学派のこの自然のままの系統樹は、時がたち文化がすすむにつれて、神秘教という薫香(しんこう)で朦朧(もうろう)の気につつまれ、ロマン主義によって空想的に彫琢(ちょうたく)され、思弁によって接種された。

 そして人は多くの博識の果実をこの樹からゆりおとし、それを乾かし、そして自慢ぶってドイツ的博識性の大貯蔵庫のなかにたくわえた。しかし真実には、何ほどの批判を必要とするまでもなく、その芳香をはなつ近代的なあらゆる章句の背後に、わが旧制度の啓蒙家のけがれた古くさい着想が再確認され、またそのまったく大げさな説教口調の背後に、彼のだらしない陳腐さが再確認される。

 フーゴーは『動物的なものが人間の法律的な区別標識である』という。したがって法は動物的な法である。」

 以上のように、青年マルクスは、フーゴーらの歴史法学派を法の理念がない、現実を単に現実としてみとめているだけではないか、と激しく論難している。

 もちろん最初に確認したように、その批判はあたっている。歴史法学派は、ドイツのアンシャンレジーム(旧制度)が法的に正当なものであるということを、現存する法は必ずしも理性的である必要はない、法律として存在するものは、存在する、もしくはかつて存在したという理由だけで、それは法として妥当であるという理由づけで、当時のドイツの法秩序を正当化しようとしているのであり、これは単なる現状の追認でしかない。これに対して青年マルクスは、ヘーゲルにならって法のなかに理性的なものをこそ見るべきであるというのである。

 しかし青年マルクスの主張は混乱している。というのは18世紀の啓蒙思想家がアンシャンレジーム(旧体制)に理性を見なかったのは、青年マルクスも認めているように、それは腐敗した体制であったからだ。したがって彼ら啓蒙思想家が法制度に理性を求めたのは理性的ではない旧体制を打倒して新しい理性的な社会をつくるためであった。ところが青年マルクスはヘーゲルにならってドイツのアンシャンレジーム(旧体制)のなかに理性(自由の理念)を見よと主張しているのである。だから人の鎖にくっついている「虚偽の花」を「理性の見せかけ」であることがわかっていても、それが理性的なものの見せかけであるがゆえに、それをふりすてたフーゴーを理性的なものを捨てたといって非難しているのである。

 しかし、ヘーゲルにせよ、青年マルクスにせよ、君主制度に立脚し、多くの封建的な諸関係を残存させているドイツの現状を忘れているのである。

 これは青年マルクスがまだヘーゲル法哲学の強い影響下にあったからである。そこでわれわれは、この問題を今度はヘーゲルの『法の哲学』を見ることによって考えることにしよう。


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