労働者のこだま(理論)

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zoom RSS スターリンへの手紙

<<   作成日時 : 2008/07/03 01:21   >>

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 1955年、スターリンが仕事場にも使っていた別荘を片づけていたとき、スターリンの机の抽斗(ひきだし)の底に敷いてあった新聞紙の下からスターリン宛の5通の手紙が出てきたそうである。
 
 スターリン宛の個人的な手紙類のほとんどは彼が死んだあと、ソ連共産党中央委員会によって、“証拠隠滅”のために、処分されてしまっていただけにこの偶然の発見はまとこにめずらしいと言える。
 
 この5通のうち3通は、レーニン、ブハーリン、チトーが出したものだそうである。
 
 なぜ、スターリンはこのような手紙を秘密に自分の手元においていたのかということは、ユーゴスラビアのチトーの手紙を読むと何となく察せられる。
 
 「スターリン。私のところへ刺客を送り込むのはよせ。われわれはもう5人逮捕した。1人は爆弾をもっていた、ライフルを持っていた者もいた。もし刺客を送り込むのをやめないなら、私の方からモスクワに刺客を差し向ける。私は2番目の刺客を差し向けなくても済むだろう。」
 
 ソ連とユーゴスラビアの独裁者たちは、まるでヤクザのように、お互いに“ぶっ殺す”などと脅迫し合っているのだが、スターリンがこのような手紙を隠し持っていたということは、ソ連とユーゴスラビアの間で何かあったとき(チトーの暗殺が成功した、もしくは、ユーゴとの間で戦争等があったとき)スターリンにとって有利であろう。
 
 スターリンは、この手紙を公開して、チトーというのはこういうひどい人物だから、仕方がなかったのだ、と言い訳をすることもできたのである。
 
 このことは、逆に、はたしてユーゴスラビアのチトーが本当にこのような手紙を書いたのだろうか?という素朴な疑問を起こさせる。この手紙の目的が脅迫や恫喝であるとするなら、証拠を残さないやり方を選ぶべきではないのだろうか、それにチトーは一国の元首である、一国の元首が他国の元首に出した手紙にしては言葉が軽すぎるのではないか、というのは説得力があるものである。
 
 つまり一言でいって、真偽のほどは明らかではないが何やらあやしげなのである。
 
 これはレーニンの手紙でもいえる。この手紙はスターリンがクルプスカヤに暴言を吐いたことにレーニンが腹を立てて、「謝罪しなければ絶交だ」というものである。
 
 この手紙は、1956年に開かれたソ連共産党の第20回党大会でフルシチョフによって「秘密報告」のなかで、スターリンの横暴さをあらわすものとして、読み上げられている。
 
 しかし、考えてみるとこれもおかしな話である。アメリカのウソつき男リチャード・パイプスは「1923年の3月5日に、レーニンは、クルプスカヤが電話で話をしているのを耳にした、レーニンが質問すると、彼女はスターリンとの先の12月の出来事について話した。レーニンは直ちに座って、スターリンへ手紙を書き・・・・」と見てきたようなウソを書き連ねているが、おかしいであろう。
 
 第一に、この頃すでにレーニンは、自力で立って歩くことも、手紙を書くこともできない状態だった。だから手紙はすべて口述筆記であり、党中央から派遣されている秘書が、レーニンの話したことを書き留めていたのである。
 
 それに、江戸のカタキを長崎で、ではないが、なぜ四ヶ月も前のことを今ごろになって蒸し返さなければならないのか。クルプスカヤが4ヶ月間もの間、12月の出来事(スターリンは、レーニンがトロツキーに外国貿易のことで内密に手紙を出したこと知り、誰が外国貿易の件をレーニンにチクったのか?すなわち、密告したのか?それはクルプスカヤではないかと疑い、クルプスカヤを「おしゃべり女」と罵倒したという出来事)をレーニンに話さなかったのは、話すべきではないと考えていたからであろう。そして12月に話すべきではないと考えたのであれば、当然3月にも話すべきではないと考えるだろう。
 
 しかし、1922年末のスターリンとレーニンの対立は、個人的なものであり、「謝罪しなければ絶交だ」という程度の問題であったのだろうかということである。
 
 レーニンがグルジア問題をめぐってスターリンを、「大ロシア排外主義のやくざ者」、「事実上の卑劣漢」等々の罵声を浴びせたのは、スターリンがマルクス主義の原則から逸脱しており、このまま党内で指導的な立場にあるのはよろしくないとレーニンが判断しているということであり、謝ってどうこうするという性質のものではなかったはずである。たしかに「ならず者」、「卑劣漢」という個人を誹謗する言葉が入っているようにも思われるが、レーニンはあくまでもスターリンの強権的で弾圧的な彼の政治的な立場(寄ってたつところ)を問題にしているのである。
                    
 だとするなら、これは個人的な問題などではなくきわめて重大な政治問題であり、組織上の問題でもあるのである。
 
 ソ連共産党の指導者たちが、外国貿易を国家が独占すべきか、私的企業の参入を認めるべきかという焦眉の課題そのものの是非についてではなく、誰がそのことをレーニンにタレこんだのかという犯人捜しに熱中するというくだらないことをやっているのだから、レーニンだったら、スターリンとカーメネフとジェノヴィエフ(レーニンの手紙にはカーメネフとジノヴィエフにも手紙の写しを送るようにという指示がある)に、「自分の妻は密告者ではない、謝れ、謝らなければ絶交だ」などという必要はまったくなく、むしろ、ソ連共産党の政治局員が、密告者捜しに熱中していることそのものをとりあげて、「そんなにやる気のない仕事だったら、無理してやらなくてもいいから辞表を提出して党外に出よ」というだろう。
 
 このように政治的な問題を個人的な問題にすり替えて、急場をしのごうというのはスターリン主義者の常套手段で、フルシチョフが党大会でこの手紙を読み上げたのも、国家資本主義(スターリン体制)の矛盾やソ連社会でまかり通っていた“粛清”(政治的なテロ)の問題をスターリン個人の資質に矮小化するためでしかなかった。
 
 そういう点ではこの手紙も「?」マークがつく。
 
 (実際には、レーニンは同じ日に別の手紙を書いている、レーニンが手紙や文章の口述を許された時間は、“10分程度”であったことを考えると同じ日に2通の手紙、しかもその内容は正反対のものを書くというのはありえない。
 
 この3月5日の手紙はトロツキーに宛てたもので、
 
 「親愛なる同志トロツキー、私は君が党中央委員会で、グルジア問題の弁護を引き受けてくれることを、ぜひともお願いする。本件は、現在、スターリンとジェルジェンスキーの『追及』のもとにあるが、私は彼らの公正さを信用できない。ろしろ、その逆である。もし、君がこの問題の弁護を引き受けることに同意してくれれば、私は安心できる。もし、何らかの理由で同意できないのであれば、本件の書類を全部私に送り返してくれたまえ、私は、それをもって、君の不同意のしるしとみなすつもりだ。最良の同志的挨拶をもって、レーニン」
 
 レーニンは、グルジア問題を蒸し返して、トロツキーにスターリン派撲滅戦を一緒に闘おうと呼びかけており、トロツキーが不同意なら自分一人だけでもやるといっている。)
 
 最後の「コーバ(スターリン)、どうして私の死が必要なんだ?」という手紙はおそらく真筆(ブハーリン自身が書いたもの)であろうが、それでもこの手紙には謎が残る。
 
 というのは、この手紙が書かれたのは1938年3月15日の夜、ブハーリンが処刑される直前である。
 
 スネーゴフの証言によれば、ブハーリンは銃殺される直前に紙と鉛筆をもとめ、スターリンに最後の手紙をしたためたのだという。
 
 最初に、このスネーゴフという人物はフルシチョフの助手で、スターリンの別荘から5通の秘密の手紙を“発見”したのも彼である。
 
 ブハーリン裁判は3月2日に、500人を収容する“10月ホール”で行われ、外国の外交官やジャーナリストにも公開されている。
 
 ブハーリンの最終弁論は3月11日に行われ、12日に裁判は結審している。判決の言いわたしは13日の朝4時、傍聴人のいないなかで行われ、ブハーリンは銃殺刑を宣告される。
 
 翌14日に、死刑判決を受けた被告人のうち4人が恩赦を願い出ているが、そのなかにブハーリンも含まれていた。
 
 そして15日にブハーリンは銃殺にされるのだが、死刑が執行される直前の政治犯に、紙と鉛筆が与えられるのは異例であり、普通は許可されない。一般の刑事犯であるなら、温情ということもあろうが、政治犯に遺言を残させることはありえない。
 
 ブハーリンは最終弁論、恩赦の嘆願という機会を通じて自分のいいたいことをいうことを許されていたが、ブハーリンはいいたいことのすべてをいっていなかったのだろうか、それで手紙の内容を調べたかったが、「コーバ(スターリン)、どうして私の死が必要なんだ?」という書き出し部分しか分からなかった。しかし、それほど重要なことをいってはいないからこそスターリンはこの手紙を手元においていたのであろうと思われる。
 
 つまり、ブハーリンの遺言を欲していたのはむしろスターリンであり、スターリンはブハーリンが秘密の暴露をして死んでいくのではなく、秘密を持ったまま死んで欲しかったし、彼ならそうしてくれると考えていたからこそ、彼に最後に紙と鉛筆を持たせて遺言を書く機会を与えたのではないか。
 
 だから、何かあったときに、スターリンはこの手紙を公開して、自分は関係ない、ブハーリンも死ぬときにそういうことはなかったといっていた、といえるからである。
 
 そういう点では、スネーゴフが発見したという5通のスターリン宛の手紙というのは、どこか信用できないところがある。   

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